おのしゅうのブログ

旧タイトル 注釈の多いオノマトペ

釧路川リベンジ  その一

わたしの所属していた探検部が壊滅的被害を受けた「釧路川、川下り」
から二年後のことである。


わたしはまたも釧路川を船で旅することになった。


これは、当時「H大探検部」に所属していたH田君(わたしの高校山岳部の同級生である)が
彼の所属する探検部何人かで釧路川を川下りにくるということで
釧路在住だったわたしに「ひとばんとめてくれ」と言ってきたことが発端であった。


わたしは「この好機、逃すべからず」と、
一泊の宿を提供する代わりにこの川旅に同行させてもらうよう、H田君に無理矢理頼み込んだ。


以上のような経緯で、H大探検部員三名+部外者一名は、
釧路川の源である屈斜路湖畔に降り立ったのである。
2004年9月25日のことであった。


H田君(H大探検部部員、わたしの高校山岳部での山仲間)
I垣君(H大探検部部員)
Z元君(H大探検部部員)
わたし(Hホニャララ大探検部部員)
以上のようなメンバーになった。


ちなみに、H田君は探検部の他の活動があるとのことで、二日目の昼頃に抜ける予定とのことであった。


わたしの船は一人のりゴムボート(友人からの借り物)で、
ホームセンターのようなところで2万弱で買ったということであった。(まともなものは10〜20万くらいはします)
こんなのだった。(写真はイメージです)

H大の三人の船は、かなり大きなラフト(ゴムチューブの楕円形のボート)だった。
このときのラフトは、世界に誇るゴムメーカー『オカモト社』製であった。(現在オカモトは船は作っていないそうです)


その時の会話


わたし:これは、あの『オカモト』か?
I垣君:あの、『オカモト』だ。
わたし:(「あの」とはいったものの使ったことがない・・・。)
    ※使わない主義とかそういうことではなく、使う機会がない。
I垣君:まあ、「あの」という割に使ったことはないけど。
他2名:俺たちもだ。


この瞬間我々4名は深い連帯感で包まれ、心の底から「ひとつのパーティー」になることができた、ような気がした。


ラフトとはこんなのです(これもイメージです)

初日は湖畔にテントを張り、二日目の朝から漕ぎだした。
屈斜路湖からの流れ出しの直後は、鬱蒼とした森の中をゆったりと進んで行く。
もしかしたら1000年前からこの眺めは変わっていないんじゃないか、と思わせるようなすばらしい風景だ。


わたしの船は思ったより快調に進んで行く。しかし、H大のラフトの方がなかなか進まない。
どうやら釧路川は全体的に流れが緩やかでラフトで下るような川ではないらしい。
(一般的に、ラフトはスピードが出ないとのこと)
ラフトは、もっと『急流』とか『激流』という名が似合うような
リポビタンDのCMに出てきそうな川でこそ活躍するものらしい。


たしかに、釧路川は「ファイトー!!いっぱーつ!!!」とはほど遠い世界だ。
どちらかというと、「あーあー、かわのながれのよおーにいーー」の方が当てはまると思う。


そんな川に、「なぜラフトを持ってきたのだ?」と聞くと
H田君答えて曰く、「なんでだろうね」とのことだった。
高校時代からだがとぼけた男であった。


川旅は進み、途中でH田君が「その船、ちょっと漕いでみたい」と言ってきたので、交代してあげた。
H田君は、わたしの(借り物の)船を激しく漕いで、たいそうご満悦であった。


そうこうしているうちに、弟子屈の街にさしかかってきたので
予定通り、ここでH田君が離脱した。
H田君の「探検部の他の活動」というのは
『ヒマラヤマ』登頂というようなものであった。
ヒマラヤマというのは漢字で書くと「比麻良山」と書き、層雲峡のあたりにある。
H田君は、「ヒマラヤマに無酸素で登るのだ」などと下らないことを言っていた。
ここからヒッチハイクで向かうとのこと。目的地までは150km程あるだろう。
ご苦労なことだ。


H田君を三人で見送ってから、再び漕ぎだした。
先ほどまでH田君と交換していた、わたしの(借り物の)船に再び乗り込む。


しかし何かがおかしい。
どうも水がしみてくる。
何やら穴があいている。
どうやらH田君の激しすぎる漕ぎっぷりで穴があいてしまったらしい。


「許すまじ!H田!!!」
と、憤怒にかられたが、既にH田君はヒマラヤマに向けて行ってしまった後だった。


不幸中の幸いと言うべきか、H大探検部のラフトはありあまるほどの容量だったため、
穴のあいたわたしの(借り物の)船をたたんで積み込み、わたしもまたラフトにのせてもらうことになった。


そして船は釧路湿原に向け進んで行くのであった。


その二へ 続く。(予定)